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とほ宿めぐり

旅の途中

「レースにおけるメカニック同様
旅人のサポート役でいたい」

旅の途中

酒井敏郎さん 東京都生まれ、千葉県育ち。宿は2004年開業。高校時代はキャンディーズの大ファンだったが、解散宣言を日比谷野外音楽堂の最前列で聞き大ショックを受ける。宿には自分でレストア(復活)したオートバイが飾られており、場所、時間、お金の条件がそろえば、車のレストアもしてみたいと思っている。

バイクとキャンディーズに染まった青春時代を経て車メーカーのメカニックに。「天職」とも思える仕事で、海外ラリーにも参加する機会を得るなど充実した日々を過ごしていたが、ある宿主との会話をきっかけにとほ宿の宿主に転身。車やレースに関する話題は尽きないが、近隣の穴場にも詳しく、車にまったく興味のない人でも富良野・美瑛観光の拠点として楽しく過ごせる。

子どものころから車好き

初の北海道上陸は友達とのツーリングで

 

―このオートバイは模型ですか?

 

酒井

本物だよ、乗れるよ。ホンダのシティという車のオプションで売られていたモトコンポっていうバイク。ボロボロだったものを譲ってもらって自分できれいにつくりなおしたの。

 

知り合いの物置に眠っていた物をレストアしたモトコンポ

 

 

―新車かと思った! 酒井さんは前職が車メーカーのメカニックという、とほ宿の宿主の中でも特に変わった経歴ですよね。車にはずっと興味があったんですか?

 

酒井

小学生のときから好きだったね。車関係で最初の記憶は小学校2年生で初めて買ったポルシェのプラモデル。それからずっとポルシェ好き(笑)。

 

―車にはいつから乗っているんですか?

 

酒井

車の前にバイクだね。誕生日が5月だから、高校入ってすぐの誕生日に原付の免許を取ったの。高校2年で中型バイクの免許を取って秋には400㏄の新車を買ったよ。新聞配達のアルバイトをして、お金貯めてさぁ。3年のときには親友3人とバイク乗りの聖地に行きたい、ということで北海道へ。これが初めての北海道だったね。それが珍道中でさぁ。

 

―高校生4人組の旅ですもんね。

 

リーダーは酒井さん(右)。この仲間とはいまも連絡を取り合う

 

酒井 

スタートして1時間でオレがスピード違反で捕まって(笑)。しかもオレら荷物をたくさん積んでいる上に、980円で買ったそろいの白いツナギ着てるもんだから、警察官も「みんな同じ格好してどこに行くんだ」ってなるわけ。

 

―それはおまわりさんが声をかけたくなる雰囲気ですよ!

 

酒井

だから新聞配達のアルバイトをして旅費を貯めた話をしたり、みんなで作った旅のしおりを見せたりして…。

 

―旅のしおり!

 

酒井

そうしたら「餞別だ」って言って許してくれたの。今じゃ考えられないよね。

 

―そうですね。

 

酒井

旅のしおりはひとり1日ずつ書いたんだけど、初日を担当した友達が高速は盛岡までつながっているはずだって言うから、初日の夜は青森のユースホステルを予約したわけ。そうしたら仙台から先はまだ工事中で。結局千葉から最初の宿まで23時間かかったよ(笑)。ほかにも、友達が女の子にいいところ見せようとして転倒したり、いろいろあったなぁ。

 

手書きの旅のしおり。9日間の行程が細かく計画されている

 

3年で辞めるはずが勤続24年

天職との出会い

 

―高校を卒業していよいよメカニックの道に進むわけですね。

 

酒井

高校は機械科だったからディーラーからいくつか募集が来ていたんだよ。スポーツカーが好きだったから、好きな車を出しているところにしようと思ったんだけど、行きたかった会社は希望者が多くて、じゃんけんで負けた(笑)。

 

―そんな決め方?

 

酒井

募集している会社の中にスバルもあったけど、好きな車がないからいまいち、と思っていたんだ。でも、水平対向エンジンを作っている会社だったのよ。このエンジンを使っているのはポルシェとスバルだけで、スバルではその量産車を作っていたんだよね。

 

―それで入社を決めたわけですね。

 

酒井

でも3年で辞めようと思ってた。

 

―どうしてですか? せっかく大好きな車に関われる仕事なのに。

 

酒井

ネクタイ締めてスーツ着て…っていう仕事にあこがれていたんだよね。中学の友達のほとんどは普通の会社員になっていたから。

 

―いわゆる「ホワイトカラー」的な…。

 

酒井

そうそう。でも結局24年いた(笑)! 天職だと思ったね。やりたいと思っていたモータースポーツの仕事もさせてもらったし。

 

―モータースポーツというと。

 

酒井

1990年のケニアでのサファリラリー(世界ラリー選手権)にメカニックとして参加したの。そのあと、1994年のマレーシアでのラリー(アジアパシフィックラリー選手権)にも参加したよ。

 

―すごいですね!

 

酒井さんの作業基地でもあるガレージ。男の隠れ家といった趣き

 

酒井

仕事をはじめてちょうど10年だったけどその中では若い方だったし、ケニアに行ったらまわりはずっとラリーのメカニックをやっているような人ばかりで、オレけっこうビビってた。ケニアには約6週間いたけど最初の2、3週間は、鼻をぽきぽき折られたね(笑)。サファリラリーの4158キロは、普通の車の10万キロに相当すると言われるくらいの過酷さだったから、普通に走っていたら緩まないようなネジが緩んできたりもするし。

 

―車の状態も日本とは全く違っていたんですね。

 

酒井

しかも90年のサファリラリーは、直前の大雨でとにかくコンディションが悪くて、60台のうち完走が10台という史上最低の完走率になった大会だったの。そんななかでメカニックは整備を終えたらすべての道具を持って次のポイントに先回りしてレース車を待っていなければいけなくて、とにかく過酷。

 

―道具ごと移動? それは大変ですね。

 

酒井

いまのラリーはサービスパークに車が戻ってくるようになっているんだけど、当時はメカニックが移動していたからね。レースの5日間は睡眠時間が合計で10時間くらいだったと思う。宿に帰れるのが30分っていうこともあった。30分じゃ何もできない、とリーダー言ったら「10分でシャワーを浴びて、10分横になれ。でも目をつぶるな。寝ちゃうから(笑)。残りの10分でゆっくりきれいなツナギに着替えて来い」って。

 

―えぇー!

 

酒井

俺の人生で一番苦しかったのはこのケニアでの経験なの。レースの5日間は地獄だった…でも一番楽しかったなぁ。

 

―辛い思いをしたからこそ楽しかった、というのはなんかわかりますね。

 

酒井

実はラリーでゴールした人の気持ちが知りたくて自分でも出てみたんだ。ロシアでのオフロードバイクのラリーに。

 

―どんな「気持ち」になりましたか?

 

酒井

うーん、感動っていうのには物足りなかったかな。「楽しい!」で終わっちゃって。辛いことがあると、ついケニアでの経験と比べちゃうんだけど、まだそれを超えるものはないね。

 

―本当にすごい経験だったんですね。

 

酒井

当時、ディーラーのメカニックがラリーに参加するというのは、すごく珍しいことだったんだけど、そういう機会を与えてくれる会社だったんだよね、スバルって。

 

宿主の姿を見て転身を決意

「サポートする」という役割は継続

 

―ではなぜとほ宿を開業するに至ったかお聞きしましょうか。

 

酒井

22歳くらいのときに高校3年のときと同じメンバーで北海道にバイクで来て、それ以降は毎夏来るようになったの。仲間と来たときはユースとか旅館に泊まっていたんだけど、初めてひとりで来たときにとほ宿に泊まったんだよね。姉が「とほ」の本をどこかで入手してきたんだよ。記録によると泊まったのは「ワインの国」(池田町)だったみたい。それからはとほ宿ばかり泊まってた。当時定宿というのはなくて、1週間とか10日の旅程で毎日違うところに泊まっていたかな。

 

館内は開業前にひと冬かけてセルフリフォーム

 

―いろいろ泊まり比べてみるのも楽しいですからね。

 

酒井

それで25歳くらいからだんだん「とほ宿をやれたらおもしろいかな」と思いはじめたんだよ。そんな中、気になっていたのが「セキレイ舘」(大樹町)。オフロードバイクの林道ツアーもやっていたし。でもきっかけがなくて、なかなか泊まりに行けなかった。

 

―そういう宿ってありますよね。

 

酒井

毎年お盆のころに北海道に来ていたんだけど、仲間も同じ時期に来ているから、1日だけ合流していたんだよね。41歳のとき、お互い道内を旅しながら連絡を取り合っていた後輩から「セキレイ舘めっちゃ楽しいです!」ってメールが来て。

 

―きっかけがやってきましたね。

 

酒井

それでセキレイ舘に移動したら、宿主のジヘイ(湯川政樹)さんと妙にウマが合って。夜中に2人でずっとしゃべってたんだよね。そのときに「将来こういう宿ができたらいいなーと思っていたんです」って言ったら「生活は苦しいけど、楽しいですよ~」って、本当に楽しそうに言うわけ。それに心を打たれちゃったんだ。で、約半年後に会社を辞めちゃった。

 

―え、えー?

 

酒井

当時はディーラーの店長をやっていて、辞めるって言ったら会社のナンバー2まで来て「会社の何が嫌なの?」「現場が好きなら戻すよ?」って言ってくれたんだけど、スバルでの仕事よりもっとやりたいことができちゃったって話した。

 

―辞めるってことをジヘイさんには…。

 

酒井

辞めてから「わからないことだらけなのでいろいろ教えてください」って言ったら「辞めちゃったんですか?」って言われた。「辞める前だったら絶対止めました」って…だまされた笑っっZ(8かっこ『わわわあらっS(笑)! でもうちの本店はセキレイ舘ですから!

 

周辺エリアで酒井さん一番のおすすめは宿のリビングからの眺め

 

―酒井さんは車関係のイメージが強いですが、話題が豊富ですよね。

 

酒井

車の話はお客さんの興味に合わせてしたりしなかったりだよ。でも口下手だからさぁ。無口だったし。

 

―またまた~。

 

酒井

いや、ほんと。実はなんとかしゃべれるようになりたくて、26年前にアマチュア無線をはじめたの。映画の「私をスキーに連れてって」の影響かもしれないけど(笑)。

 

―話し上手になるためにアマチュア無線?

 

酒井

何かを絶対話さなければいけない状況になるからね。あと、最初に現在地とコールサイン、受信状況の確認、と話すことが決まっていることもよかった。それで世間話ができるようになったかな。ラリーに参加した時は知らない国で知らない人と話すのにも役立ったと思うよ。

 

―実はほかの宿主の方から、「『旅の途中』はごはんがおいしい」という声を聞きますよ。

 

酒井

うちのウリは料理じゃないから(笑)! 料理をしたことがほとんどなかったから開業するときも本当は朝食だけのB&Bにしようと思っていたの。でも、それをジヘイさんに言ったら「あの場所じゃあ食事を出さないと人は来ないでしょ」って。確かに周囲に飲食店はないし、最寄りのコンビニまで7.5キロだからね(笑)。友達とかヘルパーさんに鍛えてもらって、少しずつレパートリーが増えていったかな。

 

―ちゃんと手作りしてますよね。さっき、ハンバーグをこねているのを見ましたよ。

 

酒井

作るのは嫌いじゃないけど、期待されると困るから料理には触れないで! でも宿をはじめて何がうれしいかっていうと「ごはんがおいしかった」ってコメントかな。得意な分野じゃないからよけい…ウルウルしちゃうよ。

 

開業当初夕食は主にラムしゃぶだったが現在は手作りの料理が並ぶ

 

―ウリは料理じゃないとのことですが、では「旅の途中」のウリとはなんですか?

 

酒井

だらだらできることかな…。

 

―ほとんどのとほ宿がそうだと思いますよ。

 

酒井

うちはだらだらしやすいようにハイテーブルにしてないの。リビングのテーブルはIKEAで買ったけど、わざわざ脚を切ったからね。あとは…常連さんは「人間をダメにする宿」って言うよ。誉め言葉だよね。あ、メカニックってレースではゴールまでのサポート役でしょ。だから、旅人のサポート役でいたいっていうのは? どう?

 

―かっこよすぎですね!(笑)

 

2018.8.7
文・市村雅代

 

旅の途中

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