居心地のいい場所を作りたい
ゲストハウス YOLO(ヨーロー)
植村志南子さん | 兵庫県出身。高校卒業後の進路は想定外の展開で進学から就職へ。社内の荒波にもまれながら長年勤務を続けてきたが、体調を崩し休職。一時は復帰するも、その後退職する。北海道に移住しゲストハウスを始めることを決断して、2024年に開宿。宿名の由来は、「YOU ONLY LIVE ONCE(人生一度きり)」の頭文字を取って。 |
---|
植村さんは高校を卒業後に専門学校へ進学する予定が、周囲の流れに逆らうことができず就職することに。バイク事故による入院、社内での理不尽な出来事、休職中の心理的な葛藤…。友達の後押しもあり、37年間の会社員生活にピリオドを打つ。何かに導かれるように道東の弟子屈町へ移住し、ゲストハウスをオープン。お客様に喜んでもらえるよう「居心地のいい場所を作りたい」、と願う。
お嬢様学校へ入学、高3の担任は体育会系
―植村さんの出身地はどちらですか?
植村
オギャー、と泣いて生まれたのは母親の実家がある長崎県で、その後は兵庫県で暮らしてきました。
―小学生や中学生の頃はどのように過ごしていましたか?
植村
当時は社宅に住んでいて、建物の共用スペースに3台の卓球台と50畳の道場があったんです。そこで卓球や柔道をしていました。柔道は、社宅を管理していたおじさんが無償で教えていたので習うことができたんですけど、男の子と普通に柔道をしたら負けるでしょ。だから、泣きながら食って掛かっていましたね(笑)。
―活発な子どもだったんですね。
植村
でも、人の目を気にする子供というか…。
同じ社宅に住む他の家族の親同士が、
「誰々君、○○高校を受験したけど落ちたって」
とか、
「誰々ちゃんは合格したらしいよ」
と話しているのを私は小学生の頃から聞いていて、それがすごく嫌で…。私がその話題になりたくなかったのね。そのためには、他の家族の子たちとは違う中学校を受験したらいいんだ、と思ったんです。
―ご両親には相談しましたか?
植村
母親に言ったんです。
「中学を受験したいんだけど」
「どこの中学校に行きたいの?」
「わからん」
「だったら、担任の先生に相談しなさい」
それで小学校6年生の時に担任の先生に相談しました。他の家族の親同士の話題になりたくないのが理由だから、受験したい中学校は特に無くて…。それで先生から、
「じゃあ、ここは?」
と言われたのが、中・高一貫教育の女子校だったんです。学校のパンフレットだけを見て、
「んー、ここでいい」
と決めました。親の了解がもらえたので受験して、合格したんです。
―学校では何か部活動をしていましたか?
植村
そこの学校では、生徒が何かしらのクラブに入るのと、クラブよりも緩い活動のサークルにも入るのが必須で、私はクッキングクラブと卓球サークルに入りました。クッキングクラブは週に1回しか活動しないところがいいな、と思って。そのクラブでは、ケーキ、クッキー、パンなどを作っていたんですけど、顧問の先生が怖い人で調理に失敗すると延々と怒られたりもしましたが、他のクラブに移ることもなくて、中・高の6年間、よく続いたと思いますね。でも、楽しかったですよ。
卓球サークルの方は、みんな卓球が下手で…。1年後に茶道サークルに移りました。お茶室でお茶をたてて、おまんじゅうを食べるんです。なるべく楽なところを選びました(笑)。
―高校の次の進路はどのように考えていましたか?
植村
私が通った中学・高校は大学の付属校なので、高校卒業後の進路は95パーセントくらいの生徒がそのままそこの大学に進学するんです。残りの5パーセントくらいの生徒は高い学力を持つ生徒で、さらに偏差値の高い他の大学を受験しますが、私はそのどちらでもなくて…。
―何か支障があったのですか?
植村
そこはお嬢様学校だったから、大学も結構な金額のお金が必要となるのがわかったんです。進学したはいいけれど、卒業までにお金を納め続けることができるかどうかを考えた時に、そこの大学に進学する意味はあるかなぁ、と思って。かといって、他の大学を受験するほど高い学力を持っているわけでもないし。それで、高校3年生の時に調理師になりたいと思ったんです。
―どうして調理師を選んだのですか?
植村
クッキングクラブでお菓子作りをしてきたけれど、調理師になれば製菓よりも幅広く手に職を持てると思ったんです。調理師になるための専門学校を見学したり、入学願書も取り寄せたりしたんですけど、なかなか担任の先生に言い出せなくて…。
―担任の先生との間に、気まずい雰囲気でもあったのですか?
植村
そこの大学に進学を希望しなかったら、高校3年生の時に担任に無視されるという話を聞いていたんです。そんな中で、担任が専門学校の願書の書類に記入をしてくれるかどうか不安で、どのタイミングで担任に言おうかな、と。卒業までに何ヶ月もあるし、無視されるのも嫌だし…。担任は体育会系の先生なので、
「頑張れ! お前なら何とかできる!」
と励ますようなタイプなんです。専門学校に行きたい、なんて面と向かって担任に言うと丸め込まれると思って(笑)。しゃべったらダメだな、と。
―担任の先生にどうやってお願いしたのですか?
植村
手紙を書いたんです。うちには3歳下の妹がいて来年高校受験なので、私が大学でお金を沢山使う訳にもいかないから、大学進学をあきらめて働きます、という内容を手紙に書き、職員室をのぞいて担任が席を外している間に机に置いて家に帰ったんです。実際、そこの大学の場合は入学金だけで調理師専門学校の授業料が1年分まかなえる金額でした。親とも相談して、そのお金で専門学校に行くことはOKをもらっていたんです。
―手紙に専門学校の話を書かなかったんですか?
植村
いきなり専門学校の話を出せば担任に丸め込まれるから、まずは就職の話を出して私が大学へ進学しないことを認めてもらい、その後でタイミングを見ながら専門学校の話に切り替えていこうと考えていました。
―どうなりましたか?
植村
担任から、
「植村! ちょっと来い!」
と呼ばれて。
「そうか! お前、家庭が大変なんだな!」
「大変です! すいません!」
「わかった! 仕事は決まっているのか!」
「決まってないです!」
そこまでは言えたんですけど、怖かったんでその場では専門学校の話は切り出せなくて。でも、とりあえずそこの大学に行かないことはOKになったようでした。
―よかったですね。専門学校の話に切り替えていく件はどうなりましたか?
植村
その後も、
「就職決まったのか!」
と担任から聞かれて、
「まだっす!」
と。専門学校の話をするタイミングがなかなか無くて悩んでいたら、ある日担任に呼ばれて、
「植村! ちょっと来い!」
校長室に連れて行かれて、校長先生と担任から、
「就職する気はあるんか!」
「あります!」
「じゃあ、就職先を紹介するから」
えっ?ってなって。よくわからないけど、
「ありがとうございます!」
「でも、学年でそんな生徒は他にいないから、誰にも言うなよ」
と言われたんだけど、その後クラスメイトの子たちに、
「担任から『就職先を紹介する』って言われたんだけど、どういうこと?」
とすぐに言っちゃいました(笑)。他の子もみんな、
「知らない」
「そんなことあるの?」
と。調理師になるためにいろいろと動いていたのに、その夢は何だったんだろう、って(笑)。でも、担任の勢いに逆らえずに紹介されたところの面接を受けたら、担任から、
「内定出たから頑張れよ!」
と言われて。就職する気がないから内定というのがどういうものかわからず、クラスに戻ってから他の子に、
「担任から『内定出たから』って言われたんだけど、どういうこと?」
と聞いたりしました。それで就職が決まってしまったんです。
バイクデビューを果たし北海道へ
―就職先はどのような業界の会社でしたか?
植村
信用金庫です。
―お仕事は大変でしたか?
植村
大変でした。当時は血の気も多かったし会社での理不尽なこともさらっと受け流すことができなくて、何回か、
「会社を辞めてやる!」
と言いながら仕事をしていました(笑)。若かったですね(笑)。
―信用金庫では、どのようなお仕事をしていましたか?
植村
一般の事務、窓口、営業の支援事務などです。転勤があるので、いろいろな職場で働きましたね。
―転勤はどのくらいしましたか?
植村
その信用金庫では、5年以内に転勤するというルールがあったんです。実際には3年から5年のサイクルでしたね。同じところでずっと勤務すると社員がそこの主みたいになってしまうので、転勤させて内部の不正が起きないようにしていました。でも、信用金庫なのであまり遠くには行かないです。遠くても家から片道1時間くらいの距離でしたね。昔はクルマやバイクの通勤が認められていたので、ヤマハのFZRで通勤したこともあったんですよ(笑)。
―FZRで通勤? レースで走るような形のバイクですよね。かっこいい! 元々バイクが好きだったんですか?
植村
高校生の時からバイクに興味がありましたね。友達の友達がバイクに乗っていて、私もバイクに乗りたいと思っていたけど、当時付き合っていた人がバイク反対派だったんです。その人と別れ話で揉めた頃に、ちょっと楽しいことを考えようとバイクの教習所に申込みに行って、その人とヨリが戻ったらバイクの免許を取ったことを黙っておいて、ヨリが戻らなかったらバイクを買おうと思っていました。当時の中型免許は取れたんですがその人とのヨリは戻らなかったので、速攻でバイクを買いに行きましたね(笑)。それが21歳ぐらいの時でした。
―欲しかったバイクはFZRの一択だったんですか?
植村
本当はヤマハのFZに乗りたくて。かっこよかったから。でも、バイク屋に行ったらFZが無くて、店員さんから、
「FZRならあるよ」
と言われたんです。FZと全然違っていたけれども、考えるのが面倒くさくてそれを買いました。
―通勤以外でFZRに乗って出掛けましたか?
植村
最初の頃はバイクを買ったショップが主催したツーリングに参加していましたね。一人で走って何かあったら怖いんで。その後は、そこのショップの客でもあったし、会社の先輩でもあった人に電話をかけて一緒に走ってもらいました。
―行動範囲が段々と広がっていったんですね。
植村
バイクに乗ったら、いつかは北海道にバイクで行きたい、と思うようになって。会社の夏の休暇は土日を含めて連続9日間で、しかも休みたい日にちを自分で決められるのは良かったんですけど、北海道は遠いじゃないですか。当時は関西と北海道を結ぶフェリーの往復で3日間必要だったから、北海道を走れる日数が数日しかなかったんです。それでどうしようか悩んでいたら会社の先輩から、
「バイクを飛行機に乗せて北海道に行けるぞ」
と言われてバイク雑誌を見せてくれて、
「ホントだ! でも、値段がめっちゃ高い!」
でも、ちょっと空席確認をしようと思ってその飛行機の会社に電話をかけて希望の9月の日付を伝えたら、
「1席だけ空いています」
と言われたので反射的に、
「じゃあ、予約をお願いします」
と言ってしまったんです(笑)。電話を切った後に、うわぁ、予約しちゃった…、そんなお金あるかなぁ…、と(笑)。そういうことがあって、バイクでの初北海道は22歳の時に、飛行機で行きました。
―リッチ(笑)! 北海道はどのようなルートで走りましたか?
植村
新千歳空港に着いて、1泊目は富良野、2泊目はサロマ湖。そこまではいいんですけど、3泊目は襟裳岬の予定を立てたんですよ。今それを誰かがやろうとしたら100%止めますけど。距離が長すぎるので。
サロマ湖に泊まった宿は男女別相部屋だったんですけど、同じ部屋に泊まった女の子から、
「あなたも明日のサロマ湖の釣りに行くんですか?」
と声を掛けられたんです。話を聞くと、朝サロマ湖に船を出して釣りをするツアーがあるんですが、午前6時集合らしくて、
「朝、起きることができたら私も行きます」
と言ったら、朝になってその子が私を起こしに来たんですよ。私は、「起きることができたら」って言ったのに、
「釣りに行くよ!」
と起こされて(笑)。
結局釣りに行って、その後バイクで襟裳岬に向かったんですが、高校の修学旅行で北海道に行った時に硫黄山の売店で食べたソフトクリームが美味しかったことを思い出したので、硫黄山に寄ってから襟裳岬に向かいました。そうしたら襟裳岬までかなりの距離があることに途中で気づいて…。雨が降ってきて襟裳岬まであと7、80キロくらいの忠類村でライダー向けに宿泊できるテント村を見つけた時、私、もう走れない、と思って、そのテントで寝たんです。その日はもう500kmくらい走っていて。襟裳岬の宿には電話をかけて宿泊キャンセルしました。
―北海道の広さって実際に走ってみないと感覚的につかめないところがありますからね。テント村って、どのような感じでしたか?
植村
学校の運動会で使うようなテントが屋外にあって、風が吹き込まないように壁代わりのシートで囲われていて、中に入ると床があってマットが敷かれていました。端の方に毛布が山積みになっていて、ストーブもありましたね。その日は寒かったからストーブがあったのは嬉しいんですけど、私は家にストーブがないのでつけ方がわからずに困っていて…。その時テントの外からバイクの音が聞こえて、男の人が一人テントに入ってきたんです。
「すみません。ストーブをつけてください」
と言ってつけてもらって。そのライダーさんが、
「ご飯食べました?」
と聞くので、
「食べてないです。宿に泊まる予定だったし…」
「これから近くのお店に行って何か買ってきましょうか? カップ麺とか」
「でも、お湯を沸かせないし…」
「俺、沸かせるやつを持っていますよ」
神や!と(笑)。私はキャンプ道具を一切持っていなかったので。それで、カップ麺とおにぎりを買ってきてもらいました。
その後寝る準備をしようと思って山積みの毛布から何枚か借りて重ねてみたんですけど、それでも寒いんですよ。すると、そのライダーさんは自分の寝袋を私に貸してくれたんです。
「俺、男だし。女の子が寒さで震えているのに、俺が寝袋に入って眠れないから」
と言ってくれて。翌朝はそのライダーさんと一緒に襟裳岬へ行く途中まで一緒に走りましたね。いい人でした…。
―4泊目はどこに泊まりましたか?
植村
小樽にあるとほ宿の「小さな旅の博物館」です。
―小さな旅の博物館に泊まって、どうでしたか?
植村
宿に着いて2階の部屋に案内された後、オーナーのワンワンさんから、
「よかったら後で1階の談話室に降りてきてくださいね」
と言われて荷物を置いてから階段を降りていったら、すごい髭を生やした外国人さんがいたんですよ。えっ、外国人がいる、私英語なんかしゃべられない、と思って。でも、話し声はめっちゃ関西弁でした(笑)。すごく楽しいところに来たかもしれない、と思いましたね。
―とほ宿はいろんな旅人さんに出会えるから、楽しいですよね。
植村
5泊目は函館の予定だったんですけど、雨が降っていて走るのが嫌になったから小さな旅の博物館に連泊して、6泊目は札幌に泊まり、次の日に新千歳空港から帰ってきました。北海道を全然周れていないんですけど、楽しい旅でしたね。
―次回、北海道に行く宿題が沢山できましたか?
植村
実は、北海道から帰ってきたらバイクに飽きてしまったんです。いつかは北海道、と思っていたのが、北海道を走ってしまったら燃え尽きてしまった感じで…。かなりの距離を走りましたからね。バイクに乗っている目的がわからなくなって、しばらくしてバイクを処分しました。
―そういうこともあるんですね…。バイクを降りてしまった後、どのように休日を過ごしましたか?
植村
映画を見に行ったり、買い物に行ったりしましたね。当時は今ほどパワハラが問題視されない時代だったので、会社の先輩から呼び出されたこともありました。お酒を呑みに行くことが多かったですね。大阪のミナミとか、神戸とか。断ることができないんですよ。
弱くなった心を救ってくれた四国の旅
―どのあたりの時期から、会社を辞めようと思いましたか?
植村
2023年の冬ぐらいから、ですかね。会社で理不尽なことが続いていて、医者から診断書をもらって会社を休んでいた時期があったんです。ずっと家にいると、この先家から出られなくなるかもしれない、何で生きているんだろう、このまま家にいたら死んでしまう、と考えてしまって…。でも、死んだらいけない、と思って、四国八十八ヶ所巡りに出掛けたんです。
―どのような旅でしたか?
植村
以前、新型コロナウイルスが流行していた時期に四国八十八ヶ所巡りの半分をクルマで周っていたんですよ。今回、残りの半分をクルマで周ろう、と思って。クルマだと人に会う機会が少ないので気が楽ですしね。で、残りの四十四ヶ所と、その他に「別格」と呼ばれる二十ヶ所のお寺があったので、そこもお参りしたくなって合わせて六十四ヶ所を周ったんです。実際に周ってみると、人間はいつ死ぬかわからないし、今の会社にいる意味はあるのだろうか、と思い始めたんです。家に帰ってからリハビリして、5月か6月くらいで職場復帰したんですが、ここにいる意味はないよな、と思いながら仕事をしていました。
―まだまだしんどい時期が続いていたんですね。
植村
8月くらいになって、もう仕事を辞めていいかな、37年間働いてきたしな、でも仕事辞めて大丈夫かな、辞めてどうするかな、やりたいことは別にないしな、北海道に住みたいかな、北海道に住んで何をするかな、ゲストハウスをやったら楽しそうだな、一人でゲストハウスなんてできるのかな、と思って。それで、仲がいい子と一緒にご飯を食べた時に、
「私、北海道に移住して、ゲストハウスを始めてみたいと思っているんだけど」
とぽろっと言ったら、その子が、
「めっちゃいいじゃない!」
えっ、めっちゃいいかな、と思って。その子に後押しされたから、現実的にゲストハウスを始められるのかをインターネットで調べ始めました。
―どのようにしてゲストハウスの候補地を検討しましたか?
植村
年に2回北海道にツーリングに行っている友人に会う機会があって、その人に、
「来年、私北海道に行ってゲストハウスをしたいんだけど、どこがいいと思う?」
と言ったら、
「弟子屈町がいいんじゃない?」
「それ、どこ?」
「摩周湖のそば」
と。その次の週に北海道移住フェアが大阪であって、会場に来ていた弟子屈町役場の人に相談したら、この秋に廃業予定の宿の物件があります、と聞いて、不動産の資料を見せてもらいました。隣近所に家がないし、バイクがうるさくても怒られないだろうし、めっちゃいいじゃない、と思って。資料を見たその日に、ここの前のオーナーさんに電話をかけて、
「移住フェアでそちらの物件の資料を拝見したんですけど、前向きに検討したいので仕事の休みが取れたら伺いたいのですが」
と言って、その10日後にこの宿に泊まりに来ました。築30年以上というけど、手直ししたらいけそうかも、と思って。それから1ヶ月後くらいにオーナーさんに連絡しても、購入希望者はまだいなかったんです。私はゲストハウスとか旅館業とか消防法とかの情報をインターネットで検索しまくっていて、仕事をしていても身が入らなくて…。
―退職間近という感じですね。退職日はいつになりましたか?
植村
翌年の1月末に決まりました。11月の終わりくらいに上司に相談して、12月末まで働いた後、1月は溜まった有休休暇を消化できそうだったので。
入社した頃から知っている会社の人に退職のことを話したら、
「何かあったら、どうするの? ずっとここで働いていたら60歳で定年退職後に嘱託になっても給料が下がらないようになっているのに」
と。いや、お金の問題じゃないから、と思いましたね。
60歳まで会社にいたら嘱託に切り替わって、1年更新で最大70歳まで会社にいられるから、その頃までダラダラと会社にいるだろうし。その70歳になった時に自分に何が残るんだろう、と思ったら、何も残らないし。もう今がいいタイミングなんじゃないか、と。
―退職のこと、移住のこと、ゲストハウスを始めることを、ご家族の皆さんにはどのように話しましたか?
植村
家族には、最初に娘に話したかな。
「お母さん、来年北海道に移住しようと思っているだけど」
「はぁ?! 移住して何するの?」
「ゲストハウスを始めようと思って」
「えっ? ガチで言っているの?」
「ガチで言っている」
「まぁ、お母さんの人生だから、いいんじゃないの?」
「じゃ、お母さんの人生だから、好きにします」
と言って終わりでした(笑)。
その後、引っ越し日の2、3日前になって息子には移住のことを言い忘れていたかもしれないと気づいたんです。
「ちょっと。そういえばさぁ、お母さん、言ったかな?」
「何を?」
「お母さん、北海道に引っ越すから」
「はっ?! 聞いていないけど」
「そうだよね。言うのを忘れていたと思って。でも、今言ったから」
「うん、わかった」
と(笑)。私が言うことはもう決定事項だと家族のみんなはわかってくれているから、反対しても仕方がない、と(笑)。娘も息子も社会人として働いているので、大丈夫でしょう。
―スゴイ! ご家族の方も話がまとまりましたね。宿の物件はその後どうなりましたか?
植村
1月末くらいにこの宿の前のオーナーさんに電話をし、物件の購入希望者はその後もいないということだったので、2月に交渉して物件の購入が決まったんです。
遊び心に溢れたクルマ
―北海道への移住準備では、どのようなことをしましたか?
植村
北海道に移住する前にクルマをめっちゃ探しました。北海道で買うよりも兵庫で寒冷地仕様のクルマを買う方が、クルマの下回りが錆びていないと聞いていたんです。でも、なかなか見つからなくて。移住前に友達とご飯を食べに行った時に、
「クルマを探しているけど、なかなかいいのが無くて」
と話したら、その友達が乗っていたスズキのジムニーを売ってくれることになって。それが、今宿の前に停めてあるクルマです。
―先ほど宿に着いた時に気づいたんですけど、ジムニーのフロントグリルの中央にあるエンブレムが、アルファベットの「S」ではなくて平仮名の「す」になっていて(笑)。あのエンブレムって売っているんですか?
植村
「す」のエンブレムは、その友達がああいうものを作る業者さんに注文して手に入れたそうです。あのジムニー、「す」のエンブレムも面白いんですけど、ボンネットを開けると、その中に「しゅじゅき」って書いてあるんです(笑)。クルマのオイル交換をガソリンスタンドの人に頼む時に、その「しゅじゅき」は私が書いたんじゃないですから、と言いたくなるんですけど(笑)。
その友達に、
「ジムニーを私に売ってくれるのは嬉しいんだけど、その後はどうするの?」
「次に欲しいクルマがあるから、それを買う」
と言って。それで友達が次にフィアットを買っていました。ちょっとかわいい形をしたクルマで。買った後、フィアットのフロントのエンブレムも、「ふぃ」に入れ替えていました(笑)。
―開宿はいつですか?
植村
2024年6月6日です。
―その日を開宿日にしたのは何故ですか?
植村
令和6年6月6日で、ぞろ目がいい感じ、と思って。税務署に届け出た開業日は5月5日にしたんですよ。55歳の5月5日で(笑)。どちらも大安だったし。
―「ゲストハウス YOLO」の名前の由来は何ですか?
植村
名前を付けるのって本当に苦手で、実家にいた猫の名前もセブンイレブンの前で拾ったから「セブン」とかね、そんな名前の付け方しかできないからすごく悩んだけど、何人かにゲストハウスを始めることを言った時に、
「いいじゃない! 人生一度きりなんだし!」
と言われて、「人生一度きり」の言葉をインターネットで検索したら「YOU ONLY LIVE ONCE」の言葉が出てきて。ホントに人生一度きりなんで、将来体が動かなくなる時に、あの時やっておいておけば良かったな、と思うくらいだったら、やってみよう、と思って。
周りの人から、
「それで生活できるの?」
と聞かれたら、
「生活できなかったら、働きに行くし」
と。何とかなる精神です(笑)。
―「ゲストハウス YOLO」はどのようなコンセプトを持っていますか?
植村
私はバイクに乗っているのでバイクで旅する人に来て欲しいのと、女子に沢山来て欲しいので、居心地のいい場所を作りたいですね。そのために、客室は1組1部屋の個室対応にしています。全5室のうち、まずは1室を改装したんですけど、元々あった造作の2段ベッドを解体して、代わりにシングルベッドを2台入れました。他には漆喰の壁にしたり、新しいじゅうたんに替えたり。今年の秋にもう1部屋、同じような客室改装を計画中です。
それと、洗面所にある個包装の歯ブラシは無償提供ですし、お風呂で使うフェイスタオルもこちらで準備しています。バスタオルまでは準備できないですけど、女子のお客様にはタオルを2、3枚使ってもらっても大丈夫です。化粧水も自由に使っていただけるよう洗面所に置きました。
食事もボリューミーに。20代のお客様から、
「ちょっと多すぎませんか?」
と言われましたが(笑)。
―またバイクに乗り始めたんですね。今は何のバイクに乗っているんですか?
植村
ハーレーのパパサンと、ホンダのリトルカブです。
―パパサン?
植村
パパサンです。排気量が883ccなのでパパサン。
―いつ頃からバイクの世界に戻って来たんですか?
植村
40歳の頃に限定解除したんです。なんとなく勢いでハーレーを買ってしまって。当時は1200ccを買ったんですけど、50歳の頃に事故で廃車になって…。
―ケガは大丈夫でしたか?
植村
1ヶ月入院しました。ゴールデンウイークにツーリングして、帰りに不注意で事故って即入院。ベッドから動けず、12日目にやっと車椅子に乗れました。死んでいてもおかしくない事故だったんで、生きているだけでも丸儲けでね。そういうのもあったからこの先、生きている間に何かしたい、という気持ちが心のどこかにずーっとあったと思うんです。
植村さんの暖かい心遣いと嬉しいお返し
―宿の立地面でアピールポイントはありますか?
植村
ここは摩周湖第3展望台や美幌峠までバイクなら30分くらい、中標津町まで1時間、野付半島まで2時間といった場所にあるんです。ここを拠点にしていろんなところに行けるので、2、3泊の予定で宿泊予約をされるお客様がいらっしゃいますね。例えば、1日目は知床の方をぐるっと周ってから天まで続く道を走って宿に戻ってきて、翌日は開陽台や野付半島に行って宿に戻ってきてもほどほどいい時間で走れるんです。頑張れば根室の方まで行って戻ってくることもできますし、連泊には最適な場所だと思います。うちは連泊割引もありますよ。
―地元でお気に入りの場所やイベントはありますか?
植村
買い物に出掛ける時に走る中標津町の道が結構気持ちいいですね。真っ直ぐな道が多いから。
あと、硫黄山の駐車場のところにある売店に行って、お気に入りのソフトクリームを食べるのも好きです。普通のバニラ味のソフトクリームなんですけど、濃厚なんです。それに、食べても中の方までソフトクリームで満たされているのがいいですね。
イベントでは、美留和小学校の運動会が楽しいらしくて、今年行きたいと思っています。美留和小学校の児童は20人くらいしかいないんですけど、それにプラスして保護者とか地域の人が一緒に参加するんですって。楽しそうですよね。
―これまで宿泊したお客様で印象に残っている思い出はありますか?
植村
バイクで来る予定のお客様がいて、宿泊予定の前日に気象情報を見たら翌日の午後2時くらいから雨模様だったんです。私自身がバイクに乗っていて雨が降ってきたら走るのが嫌になるので、お客様の携帯電話にショートメッセージを送ったんです。うちのチェックインは午後4時なんですけど、明日は2時から雨が降りそうなので2時にチェックインしてもいいですよ、と。そうしたら2時にこちらに到着して、バイクをガレージに入れたらちょうど雨が降り出してきたので、
「雨に濡れずに良かったですね」
と言って。その後、4時くらいに雨が止んだんです。そのお客様が、
「バイクを拭いてきていいですか?」
と言うので、
「うちに洗車セットがあるので、それを使ってもいいですよ」
と言って、洗車セットを使ってもらいました。洗車が終わった頃に、
「オーナーさんのバイクも洗いましょうか?」
と言ってくれたんです。ガレージにあった私のバイクが汚れたままだったのを見たんでしょうね。
「いいんですか?」
「ついでだから、洗っておきますよ」
お言葉に甘えて洗ってもらいました。
―植村さんの今後の目標を教えてください。
植村
ここで猫を飼いたいですね。でも、猫を飼ってまうと、冬に出稼ぎに行って家を長期不在にする訳にはいかなくなるでしょ。この近所では冬場の仕事もそんなにあるかわからない状況なので。でも、いつかは猫を飼って、冬にこもれるようになりたいですね。
斜里の方に動物病院があるんですけど、その隣で保護猫活動をしているところがあって、できればそこに行って保護猫を譲り受けたいんです。でも、行ったら猫を連れて帰りそうだから、今は行くのを我慢しています。
インターネットのサイトで猫の首輪とか、猫がご飯を食べる時の器とか、外出時に猫を入れるリュックを買ってしまいました。まだ猫がいないのに。猫が欲し過ぎて(笑)。
2025.5.20
文・園田学
