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とほ宿めぐり

awaji tourist trophy house

「これで”しまい”がない。
どこまでやれるか
やってみたい」

awaji tourist trophy house

正井 均さん 兵庫県出身。小さい時に冒険小説「宝島」を読んで以降、将来の夢は船乗りに。父親に反対され諦めたが、40代で帆船「海星」に乗船し2泊3日の「訓練」を体験した。地元役場勤務等を経て2009年に宿開業。現在はとほ宿以外にも観光ビジネスを拡大中。和太鼓グループに10年以上所属していて、旧ソ連(現ロシア)に県の文化交流使節団として赴いたこともある。釣り好き。

車に縁のある環境で育ち、自身も車やバイクに自然に興味を持つようになった。役場の仕事で地域をまわるなかで古いバイクを譲ってもらう機会が増え、所有台数は30台に。クラシックバイクのレースにも10年以上参戦していた。息子と北海道へツーリングに出かけた際に「とほ宿」を知り、自分ならどんな宿を運営するか考えはじめる。その後、祖父の代から暮らす土地で開業。外国人ヘルパーがいることが多く、国際色豊かな宿。

バイクや車と共にあった青春時代

40代までバイクレースにも参戦

 

―日本最古の神社と言われている「伊弉諾(いざなぎ)神宮」や「たこせんべいの里」などなど、淡路島の名所を案内していただきありがとうございます。さすが淡路島生まれの淡路島育ち。いろいろ詳しくていらっしゃる。

 

正井

途中、僕が造った道路もあったんやで。

 

―正井さん…前職は?

 

正井

五色町(現洲本市)役場におった。27年。そのうちのほとんどが農林水産課。土地改良や農業農村総合整備事業に携わって、測量から用地買収、計画図面引き、登記までしとった。

 

―そうだったんですか。役場の人が図面引いたりもするんですね。

 

正井

市役所はわからんけど、役場はお金がなかったから「そんなもん自分でせんかい」って(笑)。今は業者に頼むけどな。

 

―そういう勉強を元々されていたんですか?

 

正井

高校は地域開発科(農業土木系)やった。普通科に行けなくて…(笑)。

 

―役場に勤めることにしたのは何か理由があったんですか?

 

正井

親が役場へ行けって。バイクの修理屋さんとか運転手とかになったら、油で汚れた服を洗うんが大変やから事務の仕事にせえ言うて(笑)。

 

―あはは。そうそう、正井さんと言えばクラシックカー、クラシックバイクのコレクションがすごいとはお聞きしてましたが…実際すごいですね!

 

正井

でも、ほとんど買うたことないんやで。

 

―そうなんですか? すごい数ありますけど…。

 

正井

30台ある。役場で災害係になった時に、町内のあちこちを測量してまわったんやけど、使われていないバイクがいっぱいあったから、捨てんのやったらちょうだいって。で、みんな顔見知りの人からもらったから売るにも売れなくて(笑)。

 

ーでもこれ、全部修理してますよね? 手に入れる時にはお金をかけていなくても、修理にかなりお金かかったんじゃないですか?

 

正井

だから、結婚してた時は、こづかい全部修理代に使ってたよ。

 

ー正井さんはおじいさんの代から車に縁があったとか。

 

正井

おじいはんが、大正時代に大阪でタクシーの運転手しててそのあと淡路でハイヤーをはじめて。淡路で最初のハイヤー会社だったらしい。でも戦争で燃料が手に入りにくくなって、ミカンの山を買うて農家に。父親は船乗りやったけど、乗っていた船が沈んでトラックに乗りはじめて。その後タクシー会社に勤めてた。

 

大正時代、正井さんの祖父が大阪でタクシーに使っていた車。「おそらくフォードやと思う」

 

―そのあたりのことは宿のHPにも書かれていましたが、正井さんも小さい頃からバイクや車に興味を持つようになったそうですね。

 

正井

僕、バイクも車も教習所に通ったことないねん(笑)。近所のお兄さんに乗り方教えてもらって、バイクは16歳で免許取った。新聞配達でためたお金で175㏄のバイクを買って、友達と四国にツーリングに行ったりしたよ。でもバイクは18歳まで。24歳くらいの時に欲しかったバイクを人から譲ってもらうまでは車になってん。

 

―車の免許が取れたらすぐ車に乗るようになったんですね。

 

正井

そう。すぐに車欲しかったけどよう買えんくて、最初は父親の車に乗ってた。で、働きはじめて、19歳でいすゞの117クーペを買って…。僕、80年代くらいまでの映画が好きなんやけど、特にロバート・レッドフォードとかポール・ニューマン、スティーブ・マックイーンが好きで。あの人らもバイクとか車が好きやからその影響もあると思う。117クーペを買った後、映画「卒業」(1967年)に出てきた車もいいなと思ったんやけど2シーターやったから、家族ができたらあかんやろと思って、24歳の頃に4人乗りの車買うた。レース用に限定販売されたBMW 2002 turbo。2年落ちやったけど、当時の年収の2年分やった。

 

―思い切りましたね!

 

正井

役場に勤めてると銀行が貸してくれんねん(笑)。車に乗りはじめてからは友達にユースホステルを教えてもらって車で旅行するようになって…。日本中あちこち行ったけど、北海道にも3回くらい行ったかな。

 

―何か旅に出るきっかけがあったんですか?

 

正井

僕、家がここでしょ。で、勤めていた五色町役場(現洲本市役所五色庁舎)が歩いて2、3分でしょ。それまでほとんど淡路から出たことなかったし、電車の乗り方も知らんかった。研修で大阪に行った時、自動改札の通り方がわからなかったくらい(笑)。東京に行くなんて言うたら夢物語。いなかにおったらね、女の人と出会うこともないししゃべることもない。

 

―そっか…。

 

正井

北海道は、友達がバイクで行って「おもろかった」っていうのを聞いて。「車で行ったら女の子が乗ってくるし、いいで」って言うから「ほんなら車で行こか」言うて友達と2人で行ったん(笑)。

 

―下心丸出しですが…(笑)。

 

正井

でも、すっごい冒険だったと思う、あの時。

 

―そうですよね。今みたいにネットで情報も拾えないし。

 

正井

ただユースを使って旅行していたのは18~24歳くらいまで。自然災害が起きて災害係に移動したら残業が月に200時間。とにかく仕事が忙しくて。あと、友達の4輪レースの付きそいで、鈴鹿サーキット(三重県)に通い出して、28歳で結婚するまでは月に2~3回くらい行ってた。その後30歳くらいの時に、鈴鹿でクラシックバイクのレースがはじまってからは、春と夏の年に2回、そのレースにも出るようになった。

 

―正井さんのバイク第2期ですね。

 

正井

レースはじめたら、町中では一切乗らんようになった。レースは阪神・淡路大震災(1995年)の後くらいまで。40代前半までやってたな。

 

ーすごいですね!

 

レースを共に戦った、カワサキGAR(1968年式)は男女相部屋に展示。予選で自分より遅かったバイクが前を走っていたら俄然燃えたが、自分より速かったバイクに後ろから追いかけられると「ビビって遅くなんねん(笑)」というタイプだったそう

 

正井

6、7年は僕含め1~3位のメンバーが変わらへんかったけど、僕は1位にはなれんかった。僕以外の2人は若い時に全日本のチャンピオンになったことがある人とバイクメーカーの契約ライダー。やっぱり速い。でもようコケんねん。

 

―あはは。

 

正井

で、コケんのもまたうまいねん。手をあげてぴゃ~っと滑ってく。

 

―なるほど!

 

正井

僕バイクにずっと乗っとるけど、高校の時に友達と桂浜(高知県)をツーリングしててコケてから今まで1回もコケたことない。レースでも、コースアウトは何回もしたけどコケたことない。

 

―それはそれですごいですね。

 

正井

いや、ケチなんやと思う。バイク壊したら金かかるから。

 

―そっか(笑)!

 

正井

普通の人は「あかん!」と思ったら、バイク手放す。ほんで自分は手上げてぴゃ~って滑っていくけど、僕はしがみついとる(笑)。

 

―あはは。震災の頃にレースに出るのをやめたのは何か理由があったんですか?

 

正井

怖くなった。何でかって言ったらね…離婚したから。結婚しとったらね、僕がケガしても嫁はんが働いているからまぁ何とかなるわって感じあるけど、ひとりだとケガしたらどうするんやろうって思って。

 

―なんて勝手な人なんでしょう(笑)!

 

正井

勝手やろう(笑)? だから結婚は向いてないねん。震災がきて離婚して、レースどころではなくなったっていう感じやな。

 

「誰もが住んでみたいまち」を

つくることに熱中した役場勤務時代

 

―役場勤務という経歴はとほの宿主では珍しいですよね。

 

正井

入る前は、自分が役場の仕事なんかできるとは思えれへんかったけど、今は自分に向いとったんちゃうかなって思う。何でもやらしてくれたから。

 

―いい職場だったということですね。

 

正井

町長が何でも応援してくれて。「こういうことしたいねん」って言うたら、「したらええねや」って。

 

―いい上司にめぐり合いましたね!

 

正井

土地買収で、どないしても話でけへん所があったら町長が話しに行ってくれたし。でも、課長とかには「おまえ、こんなに仕事増やしてどないすんねん!」って言われたりしたけど(笑)。

 

―あはは。

 

宿名はマン島で行われるモータースポーツのレース名より。宿のマークには淡路島の形とマン島の旗にあしらわれている三脚巴を組み合わせた

 

正井

役場って「申請主義」なんやけど、僕、それはおかしいって。地元の人に聞かれたら「税金安なるよ」とか「こういう補助ありますよ」って答えるだけで、自分からは営業に行かへん。

 

―確かに、役所・役場の情報は自分で取りに行かないと得られないイメージがあります。

 

正井

僕はそういうのはおかしいって。だから町内会の総会に呼んでくれって。僕はこういうことやりたい、こういうことできますよって、各集落をまわったの。その時僕が考えていたのは「誰もが住んでみたいまちづくり」。道だけ、排水路だけ直さんかっていうんじゃなしに、公園や集会所、道や河川も総合的に整備する。だから何をしたいんか言うてくれって。で地域の人の話を聞いたら、図面を描いて持って行く。元々道のなかった所に道をつけたり、川がなかった所に川をつけたり、もう全く違う発想で図面を描いて持っていったら、「おまえ、こんなことできんのか」って。地元の人とケンカにもなったけど、自分のことじゃなしに地域のことだったから話を聞いてくれて、「ほんまにこんなになるんだったら、おまえの夢に乗ったろ」って。今も付き合いしてくれてる。

 

―そんなにアツく働いてくれる職員の方がいる町だったら住みたいです!

 

正井

町を総合整備するためには県の管轄の道や河川の変更も生じるんやけど、僕がその計画図面を描いて町長に見せたら「いいでか! やれやれ」って応援してくれて。なのに県庁にその図面を持っていくと、県道、県河川の予算が五色ばかりに行く、言うて。

 

ーそれは、五色役場が積極的に動いていたからですよね。

 

正井

僕が図面描いて用地の交渉をして登記もして…っていう作業をすべてするから、県は実質作業はなし。予算さえつけてもらえたらっていうことだったんだけど、淡路の中で、五色にどんだけ予算いきよんねんって。

 

ー県全体で考えるとお金の分配が難しいというのもわかりますが…。

 

正井

僕は、兵庫県の中でも五色が一番になったろうと思って。坂本龍馬でも、なんしか(なんとかして)日本がよくなったら、っていうことで動いとうでしょ。お金のためじゃない。僕もお金じゃないねん。なんしか五色が一番になったろうって。だから別に土日に仕事しようが構わへんねん。

 

―それくらいの気概でやっていたのであれば、いっそ町長になればよかったんじゃないですか? 

 

正井

うーん…そういうんじゃなしに、僕は図面を描いたりしたかった。自分の頭の中のものが形になって残ると思うと、もうすっごいワクワク。

 

―聞いている私もワクワクしますね~。

 

正井

今も毎年北海道に行く時に、飛行機から自分が携わった場所を見てワクワクしとる(笑)。ただ、僕は自然が好きなんやけど、その自然を壊してるのが自分ちゃうかな…って考えてしまったことはあった。

 

ー整備を進める上で、そう感じたんですね?

 

24歳頃に購入したBMW(下)。今もきちんと走る。上のシトロエン2CVと宿の入口の置いてあるルノーキャトル(いずれも1988年式)はぼろぼの状態で手に入れたが修理して、それぞれ息子さん、娘さんに

 

正井

新聞の投書欄に「これは絶対僕のことや!」っていうものも見つけたんや。「役場の方が何回もいらっしゃるので工事に協力することにした。道もよくなって、川も広くなってすごくよくなった。でも昔飛んでいた蛍を今は見なくなり寂しい」みたいな内容で。

 

ーうーん…。

 

正井

それで一生懸命ホタルやドジョウの生態を勉強したりしていろいろ考えたけど…僕が考える「自然」は最終的には人間が管理しないと無理。

 

ーどういうことですか?

 

正井

「自然」というと「人の手が入っていない状態」やと言う人もいてるけど、その考え方だと「地球上にいる人間」の存在を拒否しているように思うんや。

 

ー人間も「自然」の一部、ということですね。

 

正井

僕は人間の営みを感じさせるのが「自然」やと思ってる。ドジョウを住まそうと思ったら農薬の話だけじゃなしに、溝の掃除をしたり草を刈ったり。春は田んぼに青々とした稲が植わって、秋は金色の稲穂が揺れるような…童謡の「ふるさと」の歌詞みたいな景色が「自然」やと思ってる。

 

ー一般的に考えられている「自然」よりも「田園風景」のイメージなのかな。

 

正井

そうかもしらん。北海道はわからんけど、淡路で全く人の手が入ってない自然って…。田んぼや家が放棄されて全く手入れされていないのを「自然」とは言わんやろ? 

 

ー「ふるさと」の景色を守ろうとされてたんですね。

 

「自分ならまた違った宿になるかな」が

宿開業の出発点

 

―役場に27年いらしたということは、40代で退職されたんですね?

 

正井

役場がちょっとごたごたした時期があって。それで退職して外郭団体へ。そこでまた農業土木系の設計の仕事をしよったんやな。

 

ー宿業に興味を持ちはじめたのはどんなきっかけだったんですか?

 

正井

その後、息子が大学3年の時に2人でバイクで北海道をまわって「とほ宿」に泊まったことかな。バイクの人も歓迎っていう宿が多かったから何か所か泊まりに行ってみたんやけど、僕がやるとしたらまた違う宿の運営をやるやろなと思って。昔ユースに泊まりながら旅行に行きよった時に、こんなんもやってみたいなっていうのがあったけど、その後は仕事に追いかけられて忘れてた。でも、定年になったら何をしようかなっていうのを考えていた時に息子と北海道に行ったもんやから、これやったら自分でもやれんのちゃうかなっていうのがあったんやね。自分の家も大きかったし。

 

―いま宿にしているこの建物、元々ご自宅だったんですよね? かなり大きな建物ですが。

 

正井

震災で壊れて建て直してんねん。

 

―先ほどのお話だと…ちょうど離婚された時期だと思いますけど、ひとりで住むのになんでこんなに大きな家にしたんですか?

 

正井

元々あった家の広さで建てただけ。

 

個人のスペースはカーテンで仕切られている男女相部屋。ブランコは映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に出てきたものからヒントを得て。「明日に向って撃て!」のポスターなど好きな映画の要素を盛り込んだ。宿の営業許可に必要な図面は自分で作成した

 

―じゃあその当時から宿をやるつもりではなかったんですね?

 

正井

ないない。今食堂にしている部屋は、映画を観るAVルームにしてたし、男女相部屋にしている3階はトレーニングルームでバイクも置いて、老後は薪ストーブのそばにロッキングチェアを置いて読書もできるようにって。みーんな趣味。3階は全部自分でしてんで。

 

―ここを? すごいですね。

 

正井

以前、バイク用の建物を自分で建てたことがあるんやけど、サイズを間違えてコンパネを入れたら全部端数が出て大変やった。だから今度こそ間違えないよう、失敗せえへんように図面描いて柱には番号を振って加工して…。で、友達呼んで棟上げしたら…また合えへんねん(笑)。

 

―また(笑)⁉

 

正井

加工する時に、10センチ間違うとったんや(笑)。大工さんには柱の上下、板の裏表が逆って言われたりしたし。

 

―あはは。

 

正井

今個室にしてる相部屋の横は自分で住んでみたい部屋にしてみた。夜は星を見ながら寝んのが夢だったから天窓にして。ロフトは「アルプスの少女ハイジ」みたいに、枕のすぐ近くに窓を造って、鳥が飛んできて目が覚めるような感じにしたんや。壁には珪藻土を塗って自然素材にもこだわってみた。

 

ー素敵ですね~。

 

正井

でも…天窓はね、眼鏡外したらお月さんしか見えないし、窓から冷気が顔に落ちてきて、冷た~くなる。

 

―あはは。夢と現実のギャップが…。

 

正井

ロフトはな、窓から朝日がぱかーんと入ってきて、もう寝てられへんやんけって(笑)。

 

―残念(笑)!

 

正井

あと、古民家の柱みたいな色にしたくて柿渋を壁と床板に塗ったんやけど…めっちゃ臭いねん(笑)。半年匂い取れへんかった。

 

―あはは。その、正井さんの好みを凝縮した建物を使って宿をやることにしたんですね。

 

正井

開業は定年後と思ってたけど、目が悪くなってパソコン仕事がしんどくなったから早めに退職して宿をやることにした。前は「誰もが住んでみたいまち」をつくるのが夢やった。今度は「誰もが来てみたい宿」っていうのはどんなんやろって。

 

―正井さんの中で、「誰もが来てみたい宿」ってどういうイメージだったんですか?

 

正井

自分が泊まってみたいような宿。

 

―天窓があったり…。

 

正井

自転車も、映画の「静かなる男」(1952年)に出てきたタンデムを置いてみたり、部屋の中にブランコを作ってみたり。何度か家族で来てくれたお客さんが、子どもに今度どこに行こうかって聞いたら、うちの宿にまた行きたいって言われるらしい。僕の頭の中が子どもと一緒だから(笑)⁉

 

―はは。とほ宿は、宿主の個性に引かれて泊まりに行く人も多いのかなと思いますが。

 

正井

僕な、ユースに行っとった時、そこの宿主なんてひとつも興味なかった。他の人との出会いがあるのが楽しかった。だから僕は自分の個性でお客さんを呼ぼうとしたんじゃない。人を呼ぶことによって、さらに人が集まるっていうのが宿の魅力やと思った。

 

―お客さん同士の出会いがさらに出会いをもたらす場に、ということですね。

 

正井

そう。だから、値段も安くして、みんながどんどん来る宿で魅力を出そうとした。

 

―確かに素泊まり2800円は、とほ宿の中でも安い方かもしれません。その作戦は当たりましたか? 

 

正井

当たったか当たってないかはわからへんけど、お客さんは多い方やと思う。旅人じゃないと受け入れないっていうとほ宿もあるけど、僕はうちの宿が好きで来てくれる人やったら誰でもいいと思ってるし。…全然お客さんの相手せん、いい加減な宿やけどな(笑)。あと宿してて楽しいのは、ヘルパーで来てくれる外国の子との付き合いができたことかな。

 

―こちらは外国人ヘルパーの方がいらっしゃることが多いですよね。

 

正井

開業した時は、僕が外郭団体の再雇用で週2日働いとって、その後常勤に戻ったから、ヘルパーの子がいないとやっていけなかった。最初は日本人の子に来てもらってたけどその後はWWOOF(ウーフ)とかworkaway(いずれも寝る場所と食事を提供する人と労働力や知識を提供する人をつなぐ組織)に登録して外国の人に来てもらうことにした。

 

―それで外国人のヘルパーの方がよくいらっしゃるんですね。

 

正井

うん。役場におったら外国の人と知り合う機会はあまりなかったからね、これはよかった。いろんな国の子と知り合いになれた。エレベーターに乗ったことのない子とか洗濯をお願いしたら洗濯板はどこですかって聞いた子もおったな(笑)。

 

―はは。今は島内で、この宿のほかにお土産物屋さんとホテル、飲食店を経営していますよね。宿だけでもすごいと思いますが…。商売人ですね!

 

正井 

いや、僕は商売人やないと思う。ただね、「これでしまい」っていうのがない。90%くらいまでしたら、また次の方に行きたなんねん。

 

―そのバイタリティがすごい。

 

宿の食事のメインは、正井さんが経営する飲食店の料理人が作ったもの。この日は淡路島名物のサワラ丼。付け合わせには正井さんが世話をする畑で採れた野菜が。ミツバチも飼っている

 

正井

なんでやろうと自分でも思う。でも自分がどこまでやれるかやってみたい。うちはおじいはんが80歳過ぎまで生きてて長生きの家系やと思ってたら、父親が50歳の誕生日に亡くなってしまった。そういうことも関係しているのかもしれんけど、自分が生きている間にどれだけできるかやってみたいっていうのはあるなぁ。宿をはじめた時も、「元役場の人間が商売してうまいこといくわけないやん。そんなもんつぶれるわ」って言われたけど、ほんなら、僕がどこまでできるかやってみようと思って。

 

ーそうだったんですね。

 

正井

あまのじゃくやねん(笑)。人が新しいバイク集めよったら、古いバイク。株がアカンって言うたら株はじめる。なんせ、人のやってないことはやりたいねん。

 

―この先、正井さんがどんなことに目を付けるのか…期待しています!

 

2020.5.12
文・市村雅代

 

 

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