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CAFE&INN 吉里吉里

「自分なりの物の見方を持つ
人が集まる『抵抗の砦』に」

CAFE&INN 吉里吉里

坂本貞義さん 兵庫県出身。地図でいろいろな地名を見るのが好きで、それが旅の動機につながった。1975年に羽幌町でカフェを開業。その後町内で移転し1988年にカフェ&宿を開業した。ライダーズ名鑑の写真はシーズンオフにまとめてファイリング。当初はお客に書いてもらった用紙と写真を間違えずに組み合わせるのに苦労したが、今は車種とヘルメットのメーカーの両方を記入してもうらうことで作業がスムーズに。

20歳からはじめた沖縄から北海道をめぐる旅で、オロロンライン中ほどの日本海の景色に魅了され移住を決意。開業したカフェで集客のため、そして「おもしろい人」が訪れるきっかけになればとはじめた「ライダーズ名鑑」は予想以上の反響で、店の代名詞的存在となった。バイク以外の交通手段で訪れた宿泊客の写真は「トリッパ―ズ名鑑」に保存される。カフェは妻の敏江さん手作りのピザやパン、パスタが、また宿の夕食では旬の食材を使用した炊き込みご飯が名物。天売島・焼尻島観光にも便利。

「おもしろいヤツ」に来てもらえれば…と

はじめた企画が今や宿の代名詞に

 

―吉里吉里と言えば…「ライダーズ名鑑」ですよね! 1981年から坂本さんがバイクで来たお客さんの姿を撮りためてきたものですが、撮りはじめたきっかけは何だったんですか?

 

坂本

田舎だからお客さんの数もたかが知れてるでしょ。だから少しでも集客できるようにっていう感じ。

 

―意外にって言ったら失礼ですが(笑)、営業努力されてるんですね!

 

坂本

営業努力しないと羽幌で宿なんて維持できないもん。

 

敏江

地道にコツコツ。

 

―あはは。

 

坂本

僕自身、車とかバイクが好きで、カフェ時代には店内に古いバイクも置いてたからお客さんにもバイク好きな人が多かったし。ただ昔は写真を撮ったらフィルムを現像して、プリントする必要があったでしょ。80年頃からやりたいな、と思ったけどお金かかるしなぁと思って。

 

―確かに今よりも写真関係にはお金がかかりましたよね。

 

坂本

実はその前にカフェで定期的にライブをやっていたんだけど、年に7~8万円くらいの赤字だったんだ。

 

―あら。

 

坂本

ただ子どもができて、おっかぁ(妻の敏江さん)があんまり動けなくなったからライブはやめようってことになって。それでライブの赤字補填に使っていたお金を名鑑のほうにまわそうって。

 

―赤字の補填用ということは、決して余っているお金ではなかったと思いますが…(笑)。

 

坂本

そうだね(笑)。自分がバイクに興味があったっていうのもあるけど、そもそもは「おもしろいヤツに来てほしい」と思ってはじめたんだよね。「おもしろいヤツ」はどういう人かって考えたら、当時、バイクに乗ってる人に「おもしろいヤツ」が多かった。バイク自体、変わろうとしていた時代だったんだよ。ちょうど…ラッタッタってわかります? そういう遊び感覚で乗れる50㏄のモペットバイクがいっぱい売れた時代。昔からバイクファンはいたけど、そうじゃない人が「バイクっておもしろいじゃん」ってなってった時代。そういう感度を持つ人たちに来てもらいたいなと思ったの。

 

1981年の「ライダーズ名鑑」。時間がたっても色あせないよう、コダックの純正フィルムを使用。コストはかさんだが、そのおかげで今もきれいな写真を見ることができる。デジカメで撮影したものも、仕上がりを考え現像に出しているそう

 

―その企画が当たって、当時はバイク乗りの間で「吉里吉里っていう喫茶店に行くとバイクの写真を撮ってもらえる」と口コミでかなり広まっていたようですね。とほ宿主の中にも何人かここで写真を撮ってもらったことのある人がいるはずです。

 

坂本

いろんな企画を立てるけどさ、外れることの方が多いよな(笑)。バイクはちょっと当たりすぎちゃった。

 

敏江

吉里吉里=バイクってね。

 

坂本

そうなってしまったのは誤算。

 

―そうなんですか? 羽幌町で配ってる地図にも「ライダーの聖地」とありましたよ。

 

敏江

はは。自分たちで言ってるわけじゃないし。聖地ならもっといっぱいお客さんに来てほしい(笑)。

 

―あはは。そっちに特化されすぎちゃったって感じですかね。

 

敏江

私たちの意に反して。

 

坂本

お店って、経営者側がこうしたいって思ってもお店自体が全然別の動きをしちゃうじゃん。それはもうしゃあないなって感じ。

 

―そうなるともう手を離れた感じですね。

 

坂本

店自体が動いてるから。お客さんのあることだから、完全にコントロールはできないよね。

 

荒涼とした日本海の風景に引かれ

オロロンライン沿いの町に移住

 

―こちら、最初はカフェとしてスタートしたんですよね。

 

坂本

そうだね。僕は兵庫県の宝塚の出身なんだけど、北海道で暮そうと思うと公務員くらいしか仕事がなかったんですよ。でも、公務員なんて死んでもなりたくなかったから。

 

―はは。

 

坂本

旅行していた時にユースホステルのヘルパーをやったことがあるんだけど、宿って24時間仕事でしょ。これはちょっと大変かなと。だからカフェの方がまだましかなと思ったんだけど、カフェも忙しくなると完全に24時間仕事になるんだよね。

 

―仕込みとか営業時間外の仕事がありますもんね。

 

坂本

だったら宿泊の方もやってみるかって。ちょうどカフェのために借りていた建物が古くなって取り壊すっていう話になったんで、町中から今の場所に移転して宿もはじめたんです。

 

カフェ兼宿の談話室。木とモルタルで造られたスタイリッシュな空間。壁には「ライダーズ名鑑」がズラリ

 

―旅はいつ頃からしていたんですか?

 

坂本

中学生くらいから自転車であちこちに。高校に入ったら九州、四国までは行ってたかな。自分のいる場所とは違う所を見にっていう感じで。で、20歳くらいの時に沖縄からずっと北上してきたんだよね。その時は飛行機とか船、車で。

 

―日本縦断しようということになるとお金も必要だし、結構な決意がいるんじゃないですか?

 

坂本

だからちゃんと貯めましたよ、1年くらいバイトして。ただ大学紛争とかでごたごたした時代だったし、僕は計画性のある人間でもないので、最初から「旅に出るためにお金を貯めよう」っていうんでもなくて。

 

―じゃあお金が貯まってきたから行くかっていう感じだったんですか。

 

坂本

そんな感じ。旅もずっと行ってたわけじゃなくて、とりあえず日本の下から上まで行って戻り行って戻りして。沖縄もすごくおもしろかったけどね。日本に返還されてすぐだったから、料金の表示にドル、セントが残ってて「日本じゃねえなぁ」とか思ったり。結局、ここに引っかかってそのままおりますが…(笑)。

 

―はは。この時の旅で初めて北海道に上陸したんですか?

 

坂本

そうだね。関西から車でずーっと上がってきて、函館から旭川の方に行ってあとは網走の方に行ったのかな。まぁあの頃の当たり前のルートだよね。小平町と大沼(七飯町)には少し長めにいて、大沼ではユースでちょっとヘルパーをしたりして。北海道には2か月くらいいたと思う。

 

―この時に「引っかかっちゃった」っていうのはどの辺が良かったからなんですか?

 

坂本

そうね、この辺の景色なんでしょうね。「何もなさ」がすごいなと思ってね。荒涼としてるじゃない。

 

―その時はオロロンラインが目当てだったんですか?

 

坂本

いや、知り合いの人から留萌の知人のとこに酒を持って行ってくれって頼まれたの。

 

―あはは、お使いがきっかけだったんですね。

 

坂本

あと「新日本紀行」(NHK)っていう番組で天売島を紹介していたのを見て「へぇこんな所があるんだ」っていう思いはあったね。

 

―ウトウやオロロン鳥など海鳥の繁殖地としては世界的にも珍しい有人島ですよね。ここから天売、焼尻島行きのフェリー乗り場までは車で10分程度の距離ですし。じゃあはじめて北海道に来た時にこの辺の景色がいいなと思われて…。

 

坂本

1回宝塚に戻ってまた北海道に行くかって、お金を貯めてもう1回。その時はもうこっちで住むかなって感じで。こっちで仕事をしようかなって。

 

―それはいくつの時なんですか?

 

坂本

22歳の時に北海道で暮らしはじめたのかな。昔だから、大学を出たら仕事をしないといけないっていうイメージがあるじゃん。僕は大学に行ってないけど、22歳になると僕のまわりがみんな働きはじめたから、なんか仕事をしないとって。

 

―それが北海道でカフェっていうことだったんですね。でも集客を考えると函館や北上してくる道中の小樽あたりの方がよかったんじゃないですか?

 

坂本

大沼に少し長めにいたから土地勘もあったし、最初は函館で探してたんだけどうまく見つからなくて。ほかの所に行ってみるかってことになったんだけど、道東の方に行く気はなかったんだよね。それで、ずーっと北に上がってきて。その時にこの辺の景色がやっぱりすごいなって。僕が生まれたのは人がいっぱいいるような所だったから、人がいない所がよかったのかもしれない。

 

―羽幌周辺に移動してからはすぐ見つかったんですか。

 

坂本

そうだね、当時は羽幌炭鉱がちょうど閉山した頃で空き家がいっぱいあったから。

 

―お金はなんとかなったんですか?

 

坂本

ある分でやるしかないでしょ(笑)。旅行中に知り合った友達に手伝ってもらって、空き家をなおして内装をきれいにして。

 

「イメージしてる宿と違うからか(笑)、通り過ぎる人が多くて」と。小樽方面から来る人はガレージに書かれた「吉里吉里」の看板(写真中央のオレンジ色の部分)を見落とさないように。稚内方面から来る場合は宿の隣の「DZMart」の看板を目印に

 

―当時羽幌の人口はどれくらいだったんですか。

 

坂本

約1万5000人。炭鉱閉山前の約3万人から半分になった頃。

 

―人口が減少している=カフェのお客さんも少なそう…というような不安はなかったんですか?

 

坂本

22歳だったからいろいろわかってないの(笑)。怖いものなし。だからできた。30歳過ぎてやれって言われたらやらない。

 

―あはは。

 

移転をきっかけに、

より個性的な人が集まる場所へ

 

―カフェの開業を思いついたということは、お料理もお好きだったんですか?

 

坂本

嫌いではなかったけど、特に料理の訓練は受けてません。まぁ「喫茶店」だったから、コーヒー、紅茶がメインで食べ物を少し。今は、料理は全部おっかぁがやってるから。

 

―ご結婚はいつ頃だったんですか?

 

坂本

カフェをはじめて2年後くらいかな。

 

結婚してすぐの頃の坂本さんと敏江さん。敏江さんが旅行者としてカフェに立ち寄ったことがきっかけで知り合ったそう

 

―カフェではピザやパスタに加えて自家製の天然酵母パンを出されたり、宿のお料理も以前はパエリアが、いまは旬の食材を使った炊き込みご飯がこちらの名物になってますよね。

 

 

敏江

苦労してるんですよ(笑)。パエリアはちょっと年配の人には硬かったみたい。

 

ーあ~…「芯のあるご飯」みたいな感じになっちゃうのかな…。

 

敏江

そんな感じ(笑)。

 

―はは。炊き込みご飯ならその点安心ですね。季節ごとに変わる具も楽しみです。

 

坂本

アスパラガスだったり、トウモロコシだったり。営業努力だよ(笑)!

 

ー「吉里吉里」の宿は、個室が多めで相部屋でも少人数ですよね。それも営業努力というか(笑)、ニーズを見て決められたんですか。

 

坂本

最初からなるべく(2段ベッドではない)ベッドの部屋で人数は少なくって考えてたね。

 

―宿を開業された1988年くらいだと相部屋を希望するお客さんはたくさんいたと思うんですけど。

 

坂本

うん、いた。でも…どう言ったらいいのかな。宿としてのグレード…「快適性」を上げていきたいっていうのはあるじゃん。

 

―それは個人のスペースがあるということですか?

 

坂本

いろんなこと。相部屋でも全然知らない人と同じ部屋になって、うまく反応すればすごくおもしろいことが起こると思うんだよね。だから相部屋をなくすつもりは全然ない。ただお客さんも結婚して、子どもができてってなると相部屋では厳しいっていうことも出てくる。

 

―その中間を取ったのが今の形なんですね。

 

坂本

そうそう。自分も旅行するじゃん。泊まるじゃん。で、「これはいいな」と思ったらなるべく取り入れる。

 

―例えばどういうことですか?

 

坂本

なんだろうね。眼鏡とかを入れる小物入れを枕元に置くとか。あと、今は充電する物がいっぱいあるじゃないですか。だからテーブルタップを置くとかね。

 

日々「快適性」をあげている客室。2~3人部屋が主

 

―なるほど。細かいことですが、そういう気遣いってすごく助かるんですよね。スタイリッシュな建物ですが、客室が談話室(兼カフェ)と別棟になってるのはあえてですか?

 

坂本

それはここを設計したデザイナーの考えだわな。こういうような宿を造りたいっていう仕様書をデザイナーに渡してできたのがこれ。

 

―デザイナーさんにはどういう宿にしたいと伝えたんですか?

 

坂本

「抵抗の砦として」って。

 

―え? 砦的なものを造りたかったんですか?

 

坂本

城壁を持ってるって意味じゃなくて、「時代に抗うような知性を持った人が集まるような場所にしてください」ってお願いしたんだよね。

 

―「窓は南向きで」とかそういうことかと思いました…。

 

坂本

そんなことは言わなかったよ(笑)。造りについてはお任せ。第2、第3の案はいらない、第1案だけでいいからってお願いしたし。

 

―この建物の案を最初に見た時はどう思いました?

 

坂本

おもしろいなと思ったよ。でも使うとなったらなかなか大変だった。

 

―はは。そもそもなんで時代に抗う方に集まってほしかったんですか?

 

坂本

そういう風に言うと、なんか変な感じになっちゃうんだけど…(笑)。

 

敏江

人と同じ方向を見ないで、ちょっと違う方向から同じ物を見つめるとかさ、そういうこと。

 

―あ~、そういうことですね。

 

坂本

スティーブ・ジョブスの「Think different」ですよ。

 

―確かにそういう人が集まってきたらおもしろくなりますね。じゃあこの宿のウリって何ですかって聞かれたらなんて答えてるんですか?

 

結婚後、料理は敏江さんが担当するように。なるべく手作りのものを、と味噌やジャムも自家製。カフェのピザや天然酵母パンも敏江さんが作ったもので、庭になっているリンゴの実もタルトやパイとなってカフェのメニューに

 

坂本

はは、難しいですね。他と比べたらちょっと変わってるかもしれないね。前にお客さんから「もっと普通だったらよかったのに」って言われたことある。

 

―あはは。でも「『普通』って何?」っていう話でもありますね。

 

坂本

「彼らが思ってる宿」が普通なんじゃないですか。でもその通りにしたら「吉里吉里」じゃないじゃんって。

 

―宿名は井上ひさしさんの小説「吉里吉里人」から取ったんですよね? 東北のある地域が日本国から独立宣言をするというフィクションですが、なぜ宿名にしようと思ったんですか?

 

坂本

カフェを造ってる時に、名前を何にしようかっていう話になって。当時、「an・an」とか「JJ」とか同じ音の繰り返っていうのがいろいろ出てきたんですよ。それで「吉里吉里」っていいじゃんって。「吉里吉里人」は読んでたし、実は岩手県の吉里吉里っていう土地にも行ったことあるんだよ。

 

―そうなんですか!

 

坂本

小学校の時に教材の地図を渡されるじゃん。それで、友達と「〇〇っていう地名どこだ」ってクイズやるじゃん。

 

―やりました!

 

坂本

その時に吉里吉里っていう地名は知ってたのね。それで変な名前だな、いっぺん行ってみたいなって高校の時に行ったんだよね。

 

―どうでした? すごく印象的だったとか?

 

坂本

いや、特に印象的という訳では…。海水浴場があるような海辺の町で。そこに行った後に「吉里吉里人」っていう小説が出たから読んでみたらおもしろいなぁって。岩手の吉里吉里とは何の関係もなかったけど、そういうのがどこか頭にあったんでしょうね。改装作業中、トイレに行った時か何かにふと「そう言えば『吉里吉里』ってあったな」って。

 

ーそれで決定?

 

坂本

それで(笑)。そんなもんですよ。字面としてもおもしろいじゃないですか。

 

―あはは。「吉里吉里」誕生秘話ですね。先ほど「ライダーズ名鑑」でバイク=吉里吉里のイメージが思った以上に付きすぎちゃったというお話がありましたけど、別の層向けの企画は考えているんですか?

 

坂本

いや、もうそういうことはやらないね。

 

敏江

今はバイクと関係のないお客さんも昔より増えていてちょうどいいかも。もう少しお客さんが来てほしいなとは思うけど、今は時間の流れが早い。以前はこの辺に1泊してから稚内に向かっていく人が多かったけど、今は一気に稚内まで行っちゃうからね。

 

坂本

それはしゃあないね。あとはおもしろい人がどれだけ来てくれるかだね。

 

2020.2.18
文・市村雅代

 

 

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